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「日向 恭一君。よろしくたのむよ」

若き天才バイオリニスト…日向恭一。
クラシックミュージックに興味のある者ならば必ず一度は耳にする名前である。
しかしその名前の呼ばれた場所はコンサートホールでもなければ、
レコード会社のミーティングルームでもない。とある学園の薄暗い理事長室の中だった。

一年前に交通事故で左手の神経の一部を断絶、バイオリン奏者を辞めた日向は
「聖オルフェウス音楽学院」の理事長葉山に呼ばれていた。
奏者を断念した日向に、フルオーケストラ専攻コースのコーチとして教鞭を執るよう勧める葉山。
秋に開催される日本屈指の音楽コンクール、カトレア音楽祭への出場を睨んでのことである。
理事長の椅子を守るためにも、もう何年も入賞から遠ざかっている同校に
いい結果をあげてもらわなくてはならない葉山は必死に口説く。

「悪いですが、オレには無理ですよ…」
ところが理事長の思惑とは裏腹に、覇気のない声で答える日向。
彼はとりつくしまもなく、出口の方へと向かい始める。
「恭一君、いつまでも過去を引きずっているわけにもいかんだろう!
なあ、考えなおしてくれんか!」

ガタン! 日向は無言で理事長室を後にした。

校門に向かってまっすぐ廊下を歩いていく日向。
この学校の校舎はゴシック建築を真似たレリーフが至る所に掘られており、
何気なく歩いているとふと古きヨーロッパの建物の中にいるような錯覚を引き起こす。
ヨーロッパ留学の経験もある日向は、その光景に昔の自分を重ねていた。

まだ希望に満ちあふれていた日々。自分の魂を音色へと昇華する瞬間。
他の奏者たちの演奏と絡み合い、ホールに響きわたるいくつもの旋律。
そしてその演奏に共感してくれた聴衆たちの喝采。
その全ては日向にとってかけがえのないものだった。